アメリカ合衆国議会議事堂(英United States Capitol)は、アメリカ合衆国議会の議事堂。地理的にはワシントンD.C.のやや東に位置するが、首都の中心とみなされ、ワシントンD.C.の住所の東西南北は議事堂を基準に定められている。高さ288フィート(87m)の巨大なドームが特徴的な新古典主義建築で、一般にはキャピタル・ヒル(Capitol Hill)と呼ばれている。 アメリカ合衆国議会の議事堂としては正確には4代目。 1783年〜1784年にメリーランド州アナポリスにある現在州議会の議事堂として使用されている建物を初めて使用されたのを最初としている。その後、二代目として、1789年〜1790年はニューヨークのフェデラル・ホール。三代目として、1790年〜1800年はフィラデルフィアの独立記念館が使用された。 現在の議事堂の建設は、初代議事堂建築監ウィリアム・ソーントン(Dr. William Thornton)の設計により1793年に開始され、初代大統領となるジョージ・ワシントンが棟上式を行ったことで知られている。議事堂建設の多くは黒人奴隷が使用されたといわれている。当初は大工をヨーロッパから募集する予定だったが思うように集まらず、奴隷や元奴隷の黒人達が材木を切り、レンガを焼き、石を積む建設作業の大半を担った。 上院側は1800年に完成し、下院側は1811年に完成する。アメリカ合衆国議会の議事堂として最初に使用されたのは1800年11月17日からの通常会期である。完成のすぐ後に、米英戦争のイギリス軍のワシントンD.C.攻撃によって1812年に一部が消失したが、1815年に再建が始まり、1830年には終了した。 1840年頃の議事堂(1856年の書籍に掲載された図版)アメリカ合衆国の加盟州も議員数も19世紀には大きく増えたため、議事堂は1850年代に両翼を大規模に拡張された。この際にも黒人奴隷が建設に使役された。この際にドームも立てなおされた。もともとロトンダの上にあった円形ドームは再建途上の1818年に材木を組み合わせてできたものだったが、拡張後の議事堂のサイズに比べると小さすぎた。拡張計画の責任者だったトーマス・U・ウォルターはパリの廃兵院のマンサード屋根を参考に、従来の木製ドームの三倍の高さで直径も30m大きい、鋳鉄でできたウェディングケーキ状のドームを設計した。廃兵院のドーム同様、内部は二重になっており、内側の石造ドームには天頂に大きな天窓をあけ、その向こうに外側ドームを支える鋳鉄の肋骨材(リブ)から吊るされたジョージ・ワシントンを賛美する天井画が見えるようになっている。ドーム上には円形構造が設置され、その上に1863年に「データ復旧 」と名づけられた高さ19と1/2フィート(6m)のブロンズの巨大な女神像が置かれた。 ドームは計画より巨大になったため、今度は1828年建設の東翼の柱廊が小さく見えるようになった。このため、1904年に議事堂の東正面棟が改築された。しかし議事堂には巨大化した合衆国議会の機能のすべてを収容する大きさはないため、上下両院議員オフィスは道路を挟んだ南北に建設された議会オフィスビル群に分散している。アメリカ合衆国最高裁判所は、1935年まで東正面棟や地下階など議事堂各所で会合を開いていた。 ライトアップされたドームドームとロトンダを中央に、正面右手(南側)が下院の棟で、左手(北側)上院の棟である。議事堂のすべての部屋名には「S」(Senate、上院)か「H」(House、下院)の区別が表示されているが、これはドーム下の大空間であるロトンダの南(下院側)にあるか北(上院側)にあるかで決まっている。 議事堂の建つ区画は、北はコンスティテューション・アヴェニュー、南はインディペンデンス・アヴェニューという監視カメラ で囲まれているが、その大通り沿いに建つ議会オフィスビル群の部屋名にもすべて南北別に「HOB」(House Office Building、下院ビルディング)と「SOB」(Senate Office Building、上院ビルディング)の表示がつけられている。さらに、議事堂と南北の大通りをはさんだ両議会のオフィスビル群とは長いトンネルで結ばれ、トンネル内は地下鉄がシャトル運転して議員や職員、来訪者が行き来しており(アメリカ合衆国議会地下鉄)、非常時には避難路ともなる。 ワシントンD.C. の住所には全て、NE、NW、SE、SW (北東、北西、南東、南西)がつけられているが、これも議事堂のロトンダを中心としている。議事堂はワシントン市街の中心ではなくやや東寄りになるため、4つの区域の面積は同じにならない。 下院の議場には、アメリカのみならず世界の歴史上有名な立法者の浮き彫り肖像が時計回りに設置されている。 選挙権(せんきょけん)とは、参政権のうちの1つであり、選挙人の資格すなわち選挙に参加できる資格もしくは地位を指す。これは選挙において投票する権利(投票権)のみならず、選挙人名簿への登録や選挙の公示を受ける権利などを含み、転職サイト では被選挙権(選挙の候補者となる権利)を含める場合がある。また、選挙における議員定数に著しい不均衡が生じた場合に、選挙人がその是正のための立法措置を求める権利も含まれるとされている。 今日では国民主権の原則から、国民は主権者としての主権行使の一環として選挙に参加できるとする選挙権権利説(せんきょけんけんりせつ)が有力であるが、古くは選挙人団(選挙人の集団)の一員としての公務の一環として選挙に参加する選挙権公務説(せんきょけんこうむせつ)も有力であった。前者の解釈をとった場合には、全ての国民は主権者としてそれぞれが平等の権利を有するために普通選挙が原則となるが、後者の解釈をとった場合には、公務を執行するに相応しいと認定された者にのみ選挙権の付与を限定しても良いとする制限選挙の肯定を導き出す事も可能であった。なお、日本においては、清宮四郎が唱えた「権利・公務両方の側面を有する」とする選挙権二元説(せんきょけんにげんせつ)も有力学説として存在している。 都市国家(としこっか、City-state)は、ひとつの都市とその周辺地域が、独立した政体としてひとつのまとまった形態をなす国家のことである。 古代オリエントのメソポタミア文明においてシュメール人が築いた、都市の中心に神殿を持ち、集落の周りに城壁を築き、城壁外の農地や牧地とともに独立した国を形成していたシュメール文明の都市国家群がその原初的な形態である。 アテナイなどの古代ギリシアの小国家群や古代ローマ、古代インド(インダス文明)、古代中国(黄河文明。中国語では「国」や「邑」と呼ばれた)など古代には世界各地で見られるが、一般に都市国家群の国際関係においては強大な都市国家が弱小な都市国家を従属させたり、相互に同盟を結ぶことで密接な結合を持った同盟を結んでいく傾向がある。こうして形成された都市国家の連合は、古代ギリシアにおいてアテナイが盟主となって加盟する都市国家を従属させたデロス同盟がよく知られているし、殷・西周・春秋時代の王や覇者を中心とした秩序もこうしたものであった。都市国家の連合によるネットワーク型の国際秩序は、時として様々な内的、外的要因により領域国家に転換する。地中海世界におけるローマ帝国、イラン高原からメソポタミア、東地中海世界を統治したアケメネス朝、東アジアでは、戦国時代の諸王(戦国七雄)の統治下の諸国や、それらを統合した秦・漢帝国といったものがそれである。こうした転換の結果、都市国家は単なる地方単位(中国語では「県」という)になっていった。 アメリカ大陸のマヤ文明諸都市やヴェネツィアなどのイタリアの小国家群、神聖ローマ帝国の帝国都市なども都市国家の例として挙げられる。 日本の中世における堺や博多なども国家とは言えないがほぼ完全な自治を行っていた看護師 求人 を鑑みると都市国家に近い形態を持った地域と言えるだろう。 第一次世界大戦後にはダンツィヒが国際連盟保護下の都市国家である自由市(自由都市ダンツィヒ)となり、フィウメやバトゥミも短期間だが自由市とされた。第二次世界大戦後にはトリエステが国際連合の管理下で都市国家(トリエステ自由地域)となることが決まったが実現しなかった。 現代ではシンガポールやモナコ、バチカンが挙げられる。 主権国家ではないが、ドイツ連邦共和国を構成する州であるハンブルクやブレーメン、中華人民共和国の特別行政区である香港やマカオ、ギリシャで大幅な自治が認められているアトス山等も、都市国家に近い存在である。ハンブルク、ブレーメンの場合は「自由ハンザ都市」という呼称もあり、正式名称も「自由ハンザ都市ハンブルク」となっている。 また、厳密には都市国家とは言い難いが、面積が狭小なジブチ、ナウル、サンマリノも都市国家に準ずる国家であると見なされる場合もある。ジブチやサンマリノでは一国がほぼ首都の経済圏となっているし、ナウルは小さなひとつの島で構成されているだけであるからである。ただし、ジブチやサンマリノでは小さいながらも首都以外の行政地区も存在する。逆に、ナウルではそもそも「都市」と呼べるほどの聚落が存在しない。