性指向は男性を好きになるか、女性を好きになるかの別である。ここで言う「好きになる」は「恋愛感情を抱く」「同棲したいと思う」「性交したいと思う」などの感情であるが、そのレベルは人によって様々である。単に「性交したい」だけの人もいるし、「性交したいのは女性だが、一緒に暮らしたいのは男性」といった人もいる。 一般的には、男性は女性を好きになり、女性は男性を好きになる事が多いが、男性で男性を好きになる人、女性で女性を好きになる人もおり、古くから同性愛(homosexual)と呼ばれて来ている。これに対して男性が女性を好きになる場合・女性が男性を好きになる場合は異性愛(heterosexual)と呼んで区別する。日本では男性が男性を好きになるケースを「ホモ」、女性が女性を好きになるケースを「レズ」と俗に呼んでいたが、この言葉はいずれも差別的であるとして避けられる傾向もある。特に最近女性の同性愛者達は自分たちの性指向をビアンと呼んでいる。同性愛の気がない人をノンケと言う(non+気、で日本語)。アメリカでは男女区別せずにゲイと呼ぶ。一般的に身体的特徴と社会的な性自認が一致している者が、自分と異なる性の者を愛する事をヘテロと言う。 なお世の中には男性でも女性でも好きになる人も多く両性愛(bisexual)と呼ばれている。両性愛の人の中にも男女等しく愛するタイプもあれば、どちらかというと異性愛だが、同性でも魅力的な人がいれば好きになるというタイプもあり、その程度は様々である。また、自分では異性愛と思っている人も実際に機会が無かっただけで、両性愛の素質がある場合も多いのではないか、という説もある。 基本的には異性愛である者が異性を得られない環境下(戦場や刑務所、同性のみの学生寮など)で同性を恋愛とセックスの対象に選択する場合は機会的同性愛と言う、この場合除隊、釈放、卒業などにより、異性を得られる環境が回復すれば、直ちにこの同性愛傾向は消滅する。つまり、機会的同性愛は根源的な性的指向自体によるものではなく、環境において一時的に形成される性的嗜好と見なす事が出来る。 そもそも性別が曖昧な人を好きになる場合(手術前のニューハーフが好きという男性など)もあるが、これは「性指向」としての同性愛とは微妙に異なるかも知れない。 このほか、男性および女性のどちらをも恋愛や性欲の対象としない、つまり性指向を持たないという場合は無性愛(asexuality)と呼ばれ、これを性指向の中に分類することもできる。また恋愛感情を抱くか否かに関わらず、恒常的に他人への性的欲求を抱かない状態のことを非性愛というが、非性愛はそのような状態を指す語であり、性指向の一種ではない。また、男性・女性やその2分法に基づいた性の分類に適合しない人々も含め、あらゆる人々に恋をしたり、性的願望を抱いたりする人々。あらゆる人々に恋されたり、性的願望を抱かれる可能性を持っている人々。性別に囚われず、特定の人間に恋することが出来る者。などの要素を持つ人々を全性愛と言う、これもそのような状態を指す語であり、性指向の一種ではない。 なお性指向と次項の性自認は独立のものなので注意したい。詳しくは次項参照。 性自認は自分の(心の)性別を男性と考えているか女性と考えているかの別。普通は生物的な性(出生時の性)と一致することが多いが、一致しないケースが性同一性障害(Gender Identity Disorder,略してGID)である。 「障害」とまで行かなくても自分の生物的性を不快に感じている人たちもおり「性別不快症候群」と呼ばれる。この状態から性同一性障害の段階まで進行する場合も多い。また「男性」「女性」ではなく「中性」「無性」や「両性」「不安定な性」「不確定な性」。男女のいずれとも異なる第3の性の状態でありたいという人も少なくない。 現代の日本では多くの人は生まれた時に性器の外観で性別を判定されてそれで戸籍に記載され、その性に合わせて育てられるが、しばしば物心付く頃から自分の性が反対のものであったら良かったのにと思ったり、自分の本来の性は反対のものであると確信していたりする人がいる。この人たちはやがて親の目を盗んで時々異性の服を身につけたりするようになり(異性装)、やがてひとり暮らしするようになるとプライベートでは完全に異性の姿で過ごすようになったりする。しかし社会的には出生時の性で生きることを強要されるため、そこに強いストレスが生じて劇的な変化を求めていく人たちも多い。 現代では性自認と性指向は区別されて考えられるが、昔は混同していた人たちも多かった。出生的に男性である人が性自認は女性である場合に、昔は多くの人が、それなら性指向としては男性を好きになるのであろうと考えていたようであるが、実際には女性しか好きになれないという人もけっして少なくはない。もちろん、性自認が男性で出生が女性である人の性的指向が男性に向いているケースも多い。 ことばの上でも「ゲイ」は本来同性愛を意味するのに、日本で「ゲイボーイ」というと酒場で女装して給仕をする人のことを指すのが普通であるし、また「おかま」という言葉(この言葉は差別的なので使用しない事が望ましい)も女装者の意味で使用したり男性の同性間性交の意味で使用したりして、やはり言葉の混乱が生じている。 そもそも出生的な性、性指向、性自認は「連動しやすい」ものではあるが「不動産 に連動する」ものではないのである。条件を「出生の性と性自認はそれぞれ独立しており男、女いずれかである」「性指向は男、女どちらか一方を持つ」「性嗜好を考慮に入れない」とすれば下記の8種類のパターンが存在すると考えられるが実際にはこれ以外にも様々なバリエーションがあって状況は複雑である。(出生の性−半陰陽 性自認-中性、両性、無性、第3の性 性指向-両性愛、無性愛、全性愛 性嗜好-機会的同性愛、肉体的性別と性自認が逆転した人(トランスジェンダー)が好きなど) 友情(ゆうじょう)は、共感や信頼の情を抱き合う人間の間での互いを肯定しあう関係、もしくは感情をいう。友情で結ばれた者達は互いを互いの価値を認め合い、また相手のために出来ることをしようとする。友情は、互いの好感、信頼、価値評価に基づいて成り立っているものである。 「友情」という概念は、通例、近親者ではない人間同士のものを指して言う。しかし、今日逆に家族に対してこれを使う例もでてきた。家族は実際永続的な関係で情緒的なものもたぶんに含まれるが、その実、結婚相手を除けば、あとは血縁関係であり、自由な意志により選択されたものではない。動物たちが互いに惹かれあう場合には、動物の友情という別項目で語られることにする。 派生的な意味合いでは友情は、民族同士や国家同士のような政治的な関係についても、良い意味で、しばしば外交関係的なニュアンスで用いられることもある。たとえば、日中の友情的な関係、ドイツ・フランスの友好といった例がある。 日常会話の中では、友情的な関係は、そのFX の強さによって微妙に区別されたさまざまな表現がなされている。一番、弱いものとしては、「知り合い」があり、反対に最もつながりの強いものでは、「生涯の親友」といい、これは長期にわたり離れ離れになることがあろうとも、つながりが切れず、双方が無条件で信頼しあうような関係についていう。友情の絆の強さは相手のための自己犠牲というかたちで現れることも少なくない。 友情は、愛情とはいささか異なったものである。というのも、友情は感覚的な魅力によって惹かれあうものではないから。友情は、原則的には、兵士、消防士、ボーイスカウト、あるいは山登りでのパーティ、スポーツ選手、またチーム、グループでの活動仲間、労働組合の仲間といったよう場合に見られる連帯意識とは区別して考えられるべきものである。これらの場合、人は互いに連帯し、同じようなものの考え方で、信頼しあって行動することが求められ、自発的な友情とは由来が異なるからである。 もちろん、友情は仲間意識と多くの共通点を持っているのも確かである。心理学者のヘルプ・ゴールトバーグ (Herb Goldberg) は、友情は3つの段階を経過するという。彼によると仲間意識のひとつ前の段階が、友情だという。 ゴールドバーグはまた第一の段階を、「役に立つ友情」と呼んでいる。どんな理由にせよ、双方に有利、有益なことをもたらしてくれる限り、繋がっていく友情である。 第二のものは、「目的志向の友情」といわれる。なにか特定の目的があって、たとえば余暇に一緒に草野球、釣り、ゴルフなどを楽しむための連れというわけである。 第三の段階は、文字通り「友情」である。特定の目標、目的、利用を追い求めることなく、ただなにかの機会に知り合って、互いによく熟知ししあったという友人。この関係の中での利害は伴わず、ただ友情それ自体が目的になっている。 友情という言葉は、別の関係に色を添えるためにしばしば拡大解釈されて使われている。例を挙げるならだれかを仕事の上での友人という場合、仕事でいい関係をもち、単なる同僚という以上の存在、具体的に言えば共感をもっているとか、しばしば気持ちのいい付き合い方をしてきたとかそういったニュアンスをこめたいためにこういう言い方をするわけである。同様のケースについては、メル友を参考にされたい。 同性愛についても人はよく友情と関係させて語るし、また異性との間の強い友情ということもいう。男性同性愛者と女性の間のこうした関係というものはよく目にされる。大抵の場合、そうした友情は、女性と男性の間で、「ご婦人方の会話」を営んだり、自分の配偶者以外の男性とよりよく理解し会えるというのもありえないことではない。またそういう同性愛の男性からは性的な誘惑を受けないということも、相対的に友情の根拠として挙げられ、このような男性が「一番の女友達」と同列に並べられる所以かもしれない。 社会学においては、フェルディナント・テンニースが、友情を「精神の共同体」というカテゴリーを設けてそれに外為 している。また友情の中での社会的な態度について二三の学問的な研究もある。親友同士は、単なる知り合いの人間よりも互いに争いごとになることが多い。心理学者や社会学者はその理由を、親友は単なる知り合いよりもお互い信頼しあっているし何かを主張するにも無用心に腹蔵なく話してしまう。加えて頻繁に接触する機会も多いし、葛藤の生まれる場面も多くなるという点に見ている。 ゲオルグ・ジンメルは、『友情の社会学』の中で、友情をさまざまに分化した友情として語っている。アリストテレスに反対して、彼は友情を段階的な違いをもった現象と見るのである。彼にとって友情は、2人の人間が知り合いになるという瞬間に始まる。つまり、2人は自分たちの相対置する実存について知るというわけである。ここを基盤として、人は相手の「領域」に侵入していく。一方で、その進入の深さと広がりは人がどれだけ自分をさらけ出すことができるかに係わっている。他方では、友情の限界というものもある。つまり、相手はこの限界は単純には踏み越えることが出来ないというわけである。適切ではないかもしれないが、例を挙げれば、サッカーファン仲間で、人はサッカーを話題にするが、しかし、その相手に離婚相談をいきなり持ちかけるとしたら、それはやはりお門違いということになるといった類である。